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国語専門塾は国語教育(読書・作文・受験)を専門にした塾です。

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日々の雑感・書評などを記録しますHEADLINE

 

【受験】センター国語・評論文について<2013.01.05>

センター試験前とあって対策も大詰めです。センター国語評論について少し話をしてみます。

センター評論対策のキモは、「二元論の把握」「誤選択肢の看破」の二つになります。評論において、ひとつの概念を淡々と説明するよりは、2つの概念を対比させつつ論を進める方が、論旨を深いものに、かつ明瞭にすることができます。たとえば、「男」を理解するためには「女」との比較が有効ですし、「自己」の理解には「他者」との比較が必要となります。

センター試験は非常に多くの受験生の利害が絡みますので、漠然とした解答や、2通りに取れる解答をつくるわけにはいきません。したがって、必然、明瞭な論理に基づく問題となるわけです。その点、二元論は問題を作る側にとって大変都合が良いのです。

センター評論においては、まず何と何を対立させて話を進めているのかを見抜くことが読解のキモとなります。序盤の段落だけでは対立が見抜けないかもしれません。ときには序盤の段落が抽象的過ぎて紺来する場合もあるでしょう。しかし、慎重に読んでいくと、全体を通じて一見ばらばらに見える概念・命題・主張なりが、2つの陣営に分かれていることを発見するはずです。この対立を見抜いたとき、文の構造と論旨が明確になります。授業ではそんな分析を進めています。

しかし、実際に分析してみると、きれいにAとBとで分かれるものばかりではありません。AとBの中間項が存在したり、あることがらがときにはA、ときにはBの陣営になる場合もあります。これで混乱してしまう受験生もたくさんいます。とはいえ、大きく見た時に2つの陣営に分かれることは間違いありません。ぜひこの訓練をしてみてください。国語の点数は勉強に比例しないなどといわれますが、大間違いであることが発見できるでしょう。

誤選択肢の看破についても、二元論をベースとしたものが多く登場します。他にももちろんありますが、それはまた別の機会に。

【随筆】言葉と心 <2013.01.04>

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて、挨拶はそこそこにさせていただきまして。言葉にはならなけど確かに感じていること、そんなものがあります。たとえば、「かわいいってどういう意味?」と改めて聞かれたときに、とっさに辞書的な意味で回答できる人は少ないのではないでしょうか。「どういうものがかわいくてどういうものがかわいくないのかの線引きはどうすればいい?」と聞かれても困ってしまうでしょう。人によっても異なるでしょうし、時や場所によっても変わってくるかもしれません。「かわいい」という「感じ」を具体的な物なり人なりを介さず、的確に表現することは至難です。

人の心や記憶の大多数はこのような言葉にならないものによって成り立っています。今日触ったドアノブの形、電車の中で前に座ったおじさんの靴の質感、夕日が沈んだあとの藍色とクリーム色のグラデーション、その光を受けて黒くかたどられる家々の輪郭。全て確かに眼にしたはずなのにすっかり忘れてしまっています。しかし、全ては言葉にならない混沌とした心の湖に深く沈んでいくのです。

しかし、言葉はこれらの沈んでしまった記憶を喚起する力があります。ひとつの言葉があなたの人生の中で使われた状況を、一瞬にして呼び起こすのです。ただし、そのシーンが全て現れるわけではありません。言葉はかつて経験したその「感じ」を呼び起こすのです。

良い言葉を使いましょうというのはここから来ているのでしょう。かつていやーな思いをしたときの「感じ」と「ある特定の言葉」はゆるやかに、あるいは固く結び付けられており、その言葉を聞いたときにその「感じ」を呼び起こすのです。別段、一般的には悪い言葉でもないのに、なぜかその言葉を聞いた後、自分でも気づかない間にいやな感じがしているということがあるのです。自覚したことはありますか。あまりないのではないでしょうか。逆にわくわくする言葉というのもありますね。

さて、あなたにとってわくわくする言葉は何でしょうか。そんな心の探検に出てわくわくを探すのも文章を読むことの面白さなのではないでしょうか。

なお、当塾は「国語専門塾」なのですが、もし「国語」という言葉にいやな(退屈な)イメージがあったら困るなぁと思っています。国語って聞くと退屈な授業の感じを思い出してしまう人もいるでしょうからね。個人的には「文章専門塾」のほうがもり上がるのですが、まあいいかな(笑)と。皆さんの「国語」のイメージを教えてください。

今年もよろしくお願いしたします。


【古文】主語の見つけ方、補充の仕方 <2012.10.28>

古文では主語や目的語(動作の対象)がほとんど省略されてしまいます。まるで主語を出すのが邪道であるかのような扱いです。実際近代文学においても名文と呼ばれるような文には、主語が省略されている場合が圧倒的に多いことからも、それが由緒正しいやり方なのでしょう。

しかし、受験生にとってはたまったものではありませんね。そこで主語補充の方法を公式化しました。もちろん100%ではありませんが、高校入試・大学入試の大部分に応用可能な内容になっています。


一、接続助詞から主語を類推。(接続助詞とは活用語「動詞、形容詞、形容動詞、助動詞」につく助詞のこと)
@ 登場人物が2人以上のとき、接続助詞「ば、に、を、ど、が」の前後で主語が非常に変わりやすい。例外あり。(「心情語」の下に接続する「ば、に、を、ど、が」の前後では主語は変わらない)
A 接続助詞「て、で、して、つつ」の前後で主語は変わらない。例外あり。(「ので」という原因・理由で訳せる「て」はその前後で主語が変わる) 


二、原則、前の文の主語がそのまま継承される。リード文の解説からそのまま主語が継承される場合も多数。新しい人物が登場してくるまで主語は変わらない。


三、出典から主語を補充する。
日記・随筆・評論では、作者が主語となる。主語の書かれていない心情語や謙譲語の主語は、作者であることが多い。会話文での謙譲語と丁寧語の書かれていない主語は一人称の「私」か二人称の「あなた」になることが多い。


四、対となる内容の述語で、主語が変わる。
「質問」と「回答」、「命令(依頼)」と「遂行」、「与える」と「受け取る」、「笛おもしろく吹く」と「あわれにおぼゆ」、など多数


五、同じような内容の動作・状態では、その主語は同一である可能性が高い。
  例 その男心うくおぼえて…〜〜〜〜、かなし…〜〜〜〜。〜〜いとあわれにおぼゆ。


六、敬語から主語を補充する。尊敬語は「主語(〜は、〜が)」を高めている。謙譲語は「対象(〜を、〜に、〜より)」を高めていると考える。
@ 作者が誰にどのくらいの敬意を払っているのか(文中に出てきている人の身分)を把握する。最高敬語、尊敬語、敬語なしが誰に使われているのかを把握する。。
A 尊敬語、謙譲語を区別する。
B 尊敬語が出現したら「〜は」を補って読む。謙譲語が出現したら「〜を、〜に」を補って読む。


七、家来や侍女など身分の低い者は、主語として提示されないことがある。


八、以上の公式は万能ではない。


【エッセイ】「実は」という言葉の魔力 <2012.10.16>

言葉には魔力があります。言霊(ことだま)という言葉の方がなじみが深いかもしれません。

言葉というものは、理性に働きかけるもののように思われがちですが、実は無意識や深層心理にも働きかけることができます。つまり言葉が知らない内に人に様々な影響を与えているのです。

昔の人はこのことを経験的に知っていたのでしょうか。たとえば、婚礼のめでたい場では「去る」「切る」「帰る」などの離婚を暗示する言葉が使われることを嫌いました。これを忌み言葉といいます。

言葉はこのように見えない不思議な力があると信じられているだけではありません。実際に科学的な実験に基づいても立証されています。

今日はその内の一つを紹介します。「実は」という言葉の魔力についてです。

「実は」という言葉を言い換えると「これまではともかく正直に事実を打ち明けて言うと」というような意味があります。つまりこの言葉たったひとつで、「今まで言わなかったけれど、今から心の底から正直に、あなたを信じ、心を開いて言います」という意味を表せます。

「心を開く」ということは「相手を信用している」前提が必要です。

なので、「実は」という言葉を使うことによって、相手にこちらの話を受け入れる心構えを用意させることができ、様々な要求や説明、言い訳が通りやすくなるのです。

「実は今日風邪をひいてしまって・・・」「実はあのときこう思っていたんだ・・・」など、「実は」をつけるだけで、こちらの話を聞いてもらいやすくなります。

私もこの文章で「実は」を使っています。文章でも強調したいポイントで「実は」を使うと有効なのです。

言いにくいこと、謝らなければならないこと、相手に是非とも伝えたいこと、そんなことを言うときには「実は」をつけてみましょう。その効果を実感できるはずです。

言葉っておもしろいですね。

【レトリック】換喩法 <2012.10.13>

換喩法
修辞法のひとつ。あるものを表すのに、これと密接な関係のあるもので置き換えること。
(広辞苑)

密接な関係には、空間的隣接関係(概念的隣接関係)と時間的前後関係があります。

空間的隣接関係では、例えば「小学生」を「ランドセル」と表現します。「小学生」を抽象的な観念とすると概念的隣接関係と言うこともできるでしょう。

難しいような気がしますが、私たちはこれを結構日常的に使っています。特にあだなをつけるときにこの表現は活躍します。いつもめがねをかけているあの子は「メガネ」、また冬でも半袖を着てくるあの子を「はんそで」、いつもジャージを着ている先生を「ジャージ」、眉毛が濃い人を「まゆげ」とあだ名をつけたりします。(なお、「まゆげ」は全体を部分で表す「提喩」とも取れます。人と眉毛を「隣あった別物」と見ると「換喩」、「全体と部分」と見ると「提喩」になります)

いずれも、本人が身につけているものと本人を取り「換」えて表現するので「換喩」といいます。こんな感じで個性を殺してコミカルに人を表現する場合によく使われます。

「やかんを沸かす」も空間的隣接関係を利用した換喩です。現実をありのままに表現するのであれば「湯を沸かす」が適切です。「やかんを沸かす」は空間的に隣接しあっている対象、つまり「やかん」と「湯」を「換」えて、表現しているというわけです。

一方で、時間的前後関係を利用した換喩もあります。今度は密接に隣あっているものではなくて、時間が隣あっています。

「枕をぬらす」というのは時間的前後関係を利用した名作ですね。「涙を流す」という行為の後に、「枕をぬらす」わけです。「枕をぬらす」という表現だけで、何か悔しいか悲しいことがあって、寝床で思い出しながら涙を流している光景を思い浮かべてしまいます。とても暗示的で強烈な表現になります。

他に、格好いい換喩には「杯を乾かす」という表現があります。杯の酒を飲み干した結果、杯が乾きます。つまりぐいっと全部飲み干したことを表しています。

ある行いをした結果の状態を描くことによってその「ある行い」を連想させるわけです。

また、「上を向いて歩こう」という曲に「にじんだ星を数える」という表現がありますが、これも「涙が目にたまっている」ことの結果として「にじんだ」となっています。これも時間的前後関係を利用した換喩の名作でしょう。

歌はレトリックの宝庫です。たまにはこんな感じで分析してみるのもおもしろいかもしれませんね。

【雑感】滅びと輝き <2012.10.10>

死の影によって生は輝き、生は俗によってその輝きを失う。が、また死の影から免れようと鮮やかに輝こうとする。すべての事象に生の輝きとその潰え(ついえ)を想起させる。源氏物語を読んでいるとそんなことを考えてしまいます。

ちょっと難しいですね。わかりやすく言い換えてみましょう。

すべての命には「生成」と「衰退」の二つの力が働いています。「生成」の始まりには「生」が、「衰退」の終わりには「死」があります。これらは同時に働いていて、陰と陽をなしています。繊細であればあるほど、あらゆる事象に「衰退」を連想してしまい、そうであるがゆえに今湧き上がる「生」の衝動が輝きを増してくる。源氏の恋愛にそんなことを感じました。夏のセミが迫り来る死を目前に必死に鳴く姿にも通じます。なるほど、あはれなり、としかいいようがありません。

それをいとおしく見守るまなざしと心の深さを紫式部の文に感じました。清少納言では太刀打ちできませんね。源氏物語、名作です。ぜひ読んでみてください。

【雑感】古典と心の潤い <2012.10.09>

授業などで忙しく最近全然手をつけておりませんでしたが、極力更新してまいりたいと思います。秋も深まってまいりました。何かこうしんみりと古典にでも親しみたい感じです。

日本の古典というものは現代人からしてみるとまるで何か暗号か何かのように意味不明な場合があります。文法と単語がわかっていても、その文には大方飛躍があります。その飛躍を古典常識や想像力により補うことで筋道を通す作業が古典の解釈となります。古典の解釈には気が抜けません。細やかな神経を使います。

しかし、これは本当に古典に親しむ態度ではないように思います。古典は、現代社会に毒されて麻痺している心をよみがえらせてくれます。

近代資本主義社会にどっぷりつかっている私たちは知らず知らずのうちに「効率」や「効果」という哲学に少なからぬ影響を受けています。「自分のすることにどういう意味があるのか」「がんばらなきゃ」「目標を達成するためには」「成長したい」という言い方を当たり前のように受け入れます。どんなことにも「速さ」と「効き目」を求められるがゆえに、これらの言説は疑われることも覆されることもないでしょう。受験業界はこの権化みたいなものですので、私に発言権はないのかもしれません。

しかし、これは歴史的に見ると異常なことなのです。この異常事態に受ける私たちの心、感覚もまた著しくバランスを欠いた状態に追いやられています。そのバランスを取り返すがごとく「癒し」「ゆとり」「スローライフ」という「効率」側に傾きすぎた天秤を平衡に復そうとする言葉、すなわち「今」を豊かに感じようとする言葉が生まれてくるわけです。ところが、「効率」という怪物は浸透しすぎていてそれだけではピクリともしません。こうして私たちの心は「効率」に干されてうるおいを失っていくわけです。それは受験生のこんな言葉に集約されます。「古文なんてやって社会出て何の役に立つの?」

何事も役に立たないことはありませんが、確かに古文は資本主義社会で直接役に立つかといえば、マーケティングやコミュニケーション術に勝てそうにありません(「世間胸算用」など応用できそうなのはいっぱいありますが)。しかし、「今」を失いかけたとき古文の心を思い出してほしいです。

今、源氏物語を読んでいるのですが、いやすごいですね、これは。話が長くなってしまうのでこのへんで・・・


【東北関東大震災】

東北関東大震災の惨状に衝撃を受けております。日々流れるニュースで被災地の方々の状況を知るにつけ心が痛みます。その傷跡や痛みが癒えるまでしばらく時間がかかることでしょう。情緒的・感情的になってしまうのも無理ないと思います。

しかし、同時に我々はこの震災から多くのことを学ばなければなりません。次にこの震災に匹敵する不幸が訪れたときに、対抗できるだけの力を、知恵をつけなければなりません。生き残った人々及びその子孫が10年、20年、50年、100年経過して、あの震災があって多くの教訓を得たから今があるのだ、と言えるように、この状況から多くを学ぶ必要があると思います。

この震災からは、学ぶべきことが多く、学びきるのにもしかしたら20年くらいかかるかもしれません。原発という存在の可否、電力会社の対応、政府の動き、安全の確保、人の命、災害への対応、日本人の美徳、水を買い占める人の業、本当に大切なこと。各個人レベル、各地域レベル、社会レベル、国家レベル、人類レベルで学ぶべきことは本当にたくさんありそうです。

「お前は震災で被害を受けていないからそんなのんきなことをいってられるんだ」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし、震災を受けておらず元気でいられるからこそ言えることできることもあります。一緒に暗くなるのでは能がありません。今は被害に心沈んでいる方々もいつかは日常の生活に戻ります。そのときの日本の状況を少しでもよいものにしておくために周りの者が学び尽力するという復興支援もあると思います。

私はこの震災で起きた一連の人間活動を、いい面も悪い面も含めて、よくよく胸に刻んでおくつもりです。

【新年のご挨拶】明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。今年もなにとぞよろしくお願します。

論理が主に「言い換え」と「対比」から成り立っていることは、国語を教える者にとってはようやくメジャーな認識になってきたようで、それに伴う教材なども多く出されています。対の言葉を学習することは、入試問題を解く際にも直接の得点減になることが多く、また読解のヒントとなることはほぼ全ての入試問題について言えることです。そういう意味で、対になる言葉をしっかり根源的に押さえることが本当に重要です。そのような認識から対になる言葉を体系的に学習しようとする雰囲気が出てきたのではないかと思います。とてもよい風潮だと思います。

しかし、たしかに単語レベルで「普遍ー特殊」「内容ー形式」などが列挙されている教材はたくさんありますが、それをもっと根源的に押さえている教材がなさ過ぎるように思います。

言葉は以前申し上げたとおり、数ある具体的な事象から属性なり性質なりを抽出して誕生するものが少なくありません。子供たちは抽象的なものを抽象的なまま覚えるより、具体的な例をたくさん見てパターンとして抽象を認識し覚えるほうがはるかに得意です。

対義語の学習についても同じことが言えます。例えば「内容ー形式」であれば、たくさんの「内容ー形式」の具体例を見て覚える方が「内容の反対は形式だ」と無機質に覚えるよりはずっと脳の構造にかなっているのです。

「内容ー形式」の例
・ジュースという内容とコップという形式
・中身とやり方
・「俳句の形式で好きな内容を書いてください。」
・「Q&Aの形式で様々なご質問内容に答えます。」
・「中身が面白ければ、小説という形式でも映画という形式でも漫画という形式でもかまわない。」
・「今日学んだ内容は、選択肢問題と穴埋め問題の形式で試験に出します。」 
・「彼の作品は形式にとらわれすぎていて内容が伴っていない。」  etc

このように具体的なものを10個くらい列挙して、自分で具体例をつくれるようになってはじめて「ああ内容と形式ってそういうことなんだ」と理屈ぬきで理解できるのです。

このような教材を探したのですが実はありませんでした。ですので私がつくろうと思います。授業で使っているものをまとめて今年中には形にしたいと思っております。

<2011.01.10>

【考察】因果順接「だから」のいい加減さ

最近特に授業をしていて思うのですが、国語を難しくしているのは「因果関係」のいい加減さのような気がしています。こどもたちに教えていると「因果関係」はいたるところに出てきますので」若干ストレスになっています。きれいに教えることがなかなか難しいところです。腕のみせどころではあるのですけどね。

「なぜなら」はまだ論理的なのですが、「だから」は厄介です。「だから」にはごり押し力があります。次の2文を比べてください。

1 今日私は3時間本を読んだ。だから君も本を読むべきだ。
2 君も本を読むべきだ。なぜなら今日私が3時間本を読んだからだ。

1はなんとなく説得力がありませんか。2はなんかめちゃくちゃなことを言っているような気がしますよね。冷静に考えたら、「私が本を読んだこと」が「君が本を読むべきこと」の原因になっているわけがありません。「なぜなら」ではそれを感じ取ることができるのですが、「だから」はその怪しさをあいまいにして飲み込ませようとするごり押し力があるのです。

「だから」は、前の文と後ろの文を「言い換え」ているものと言うことができます。現実世界における原因と結果は隣接していて身近なものであるため、論理においてはほぼイコールと取り扱います。

今日はやけに寒い。だからマフラーをしていこう。

この文は「今日はやけに寒い」という原因によって生じる種々の予想される結果を暗黙のうちに内包していると考えます。ですから「マフラーをしていこう」という予想のされる結果と、その予想を生ぜしめる「今日はやけに寒い」という原因ほぼイコールである、と判断するのです。

少し、難しい理屈ですがこれが言語学における因果順接のはしょった説明になります。これは全言語共通らしいです。

さて、「1 今日私は3時間本を読んだ。だから君も本を読むべきだ。」に立ち戻りますと、この話者は「私が本を3時間読むこと」によって生じる結果として「君が本を読むべき」ことが当然予想される範囲として想定しています。この人の頭の中では、「私が本を3時間読むこと≒君が本を読むべきこと」という式がなぜか成り立っています。どんな事情があったのかは知りませんが、いくらなんでもごり押しすぎです。論理のかけらもありません。

にもかかわらず、このような「だから」は横行しています。「なぜなら」には許されていないのにもかかわらず。

〔だから〕、もし無理やり言うことを納得させたい場合は、いろいろいったあとで「だから〜〜だ。」と言い切るといいかもしれませんね。もちろん問題を解く際には、筆者が「だから」のごり押しを見抜かなければなりませんよ。

<2010.12.17>

【書評】「言葉はなぜ生まれたのか」

文章は、あるルールのもとで単語を並べたものと理解していることが一般的な認識ではないでしょうか。私もその一人でした。

しかし、この著者はその逆の説を唱えます。すなわち、言葉はもともと歌の一部であった。別の人間が話す2つの歌の共通する部分が単語として認識されるようになったのではないかという仮説です。この仮説を構築するにあたり、4種類の動物の言葉らしきものを引き合いに出し、仮説を導き出します。子供向けの本でとても分かりやすい内容ですが、その背景に膨大な調査や実験があることが感じ取ることができます。著者の誠実な人柄も感じることができますし、難しいことを極力簡単に説明しようとする試みを強く感じます。

難しいものを難しく説明することと、簡単なものを難しく説明する人はたくさんいますが、難しいもの、複雑なものを簡単に説明できる人はそれほど多くはありません。そういう意味でこの著書は名著ということができるのではないかと私は思います。

さて、話が前後しましたが、言葉はもともと歌の一部だったという話に戻ります。例えば、「あいあうううああえおお♪(マンモスを狩にいくぞ)」という歌があって、「うおうおえええいえおお♪(マンモスを食べるぞ)」という歌があったとします。これらの歌はそのシチュエーションごとに歌われます。すると、マンモスが出現するときには、どうも2つの歌の中に共通して出てくる「えおお」という単語があるらしいということに気づくそうです。そのときはじめて「えおお(マンモス)」という言葉が出来るという仮説です。

非常に興味深い話でした。

では文法はどのように生成されたのかであるとか、歌に共通部分が認められない場合は単語は生まれないのかといった疑問はいろいろありますが、少なくとも最初の単語はどのようにして生まれたのかという疑問を解決することができます。

単語は経験的に、歌の中から切り出されていったという仮説はとてもロマンチックな感じがして個人的にとても好きです。この著者の仮説検証についてしばらく追ってみようと思います。

<2010.10.27>

【映画】「THE WAVE」

「THE WAVE」(2008年、ドイツ)という映画を見ました。原作はモートン・ルー著「The wave」。

1968年にカリフォルニア州の高校での実話が元になっているそうです。ドイツの高校の授業で「独裁」についての講義がなされます。教師は独裁を身をもって分からせるために、そのクラスに「WAVE」という組織名をつけます。そして、規律を守らせ、不満分子を排除し、組織のために行動を起こさせます。

規律は、「白いシャツを着る」「発言するときは起立する」「先生をベンガー様と呼ぶ」「敬礼のポーズを決める」等ささいなものなのですが、それを守ることにより帰属意識は高まっていきます。規律を守ることによる生じた組織に対する忠誠心は組織のために行動することでより強化され、ついには、所属していない者を排除したり攻撃したりしはじめます。一週間でもはや組織はコントロール不能になり最後には衝撃的な結末を迎えます。

この映画は組織と教育の危うい一面を上手に表現していると思います。もともと実話が元になっていますので、リアリティがあるのは当然ですね。

この映画から組織を思うがままに動かす方法が分かってしまいます。将来組織を束ねる可能性がある人は覚えておい損はないはずです。

@ 組織名を決める。
A 規律をたくさんつくりそれを守らせる。
B 不満分子に制裁を加える。
C 組織のために行動を起こすなど奉仕をさせる。
D 組織の成員であることに対してメリットを与える。

この五つを繰り返すことで、徐々に組織に染まっていきます。私が会社勤めをしていたころ、組織には「目的」が必要だということは当然に思っていたのですが、明確な目的がなくてもただ所属したいという願望を束ねるだけで組織は成り立つのだなと妙に感心してしまいました。その場合、ただ所属することと所属している優越感が目的になるのでしょうか。

実はこのメカニズムは、ナチスやファシズムという特殊な文脈でのみ存在しているものではなく、国家、学校、宗教、会社でも人知れず働いています。意味の分からない校則がなぜ世の中に存在しているのか初めて納得しました。程度の差はありますが、こうして人は「教育」されていきます。

これが私達自身のためになっていて、同時に周囲の人のためになっていればこれほど素晴らしいことはないのですが、自らを利すること、あるいは特定の誰かを利することに終始したとき、悲劇はおこるのかもしれません。

人は人とのつながりの中で生きているがゆえに、そのつながりに多大な影響を受けます。私達がよりよく生きようと思うとき、冷静な判断力を奪われる前に、このような集団のメカニズムから一歩距離を取ることが必要です。

論理的に考えるということは、組織の情緒や空気といったものから自由に考えることを意味します。「いやちょっと待てよ、本当にそうか」と常に問える醒めた視点を育てることができていないと、人はいつでも大多数に流れされてしまう危険があります。

そんなことを考えさせられた名作でした。

<2010.10.11>

【書評】「あおい目のこねこ」

全ての物語は「○○が〜〜した物語」と要約することができるそうです。

これは、「秘伝中学入試国語読解法(石原千秋・新潮選書)」が紹介している方法で、フランスの批評家、ロラン・バルトの考えを基にした要約法だそうです。非常にシンプルでわかりやすい考え方なので私はどのような物語を読むときでも、このフォームにのっとって要約してみます。子ども達にもこの要約法を教えます。

さて、絵本「あおい目のこねこ(マチーセン作・福音館)」を紹介します。先ほどのフォームで要約してみますと、「あおい目のこねこがねずみのくにを見つける物語」です。もちろん、ねずみのくにを見つけるまでには様々な障害があります。しかしあおい目のこねこは、どんなにあざけられても、ばかにされても、身体的特徴から仲間はずれにされてもめげません。

私が、一番心動かされた部分は、きいろい目のねこ達にあおい目を馬鹿にされたとき、水溜りを見ながら「あおい目はきれい」「僕はへんてこなねこじゃないよ」とひょうひょうとしているところでした。

とかく障害に見舞われると落ち込んで暗くなり夢や目標を見失いがちです。しかし、あおい目のこねこはねずみのくにを疑うことなく、試練に対してきばらない自然な前向きさで乗り越えていきます。剛健な強さではなくユーモアや柔らかさを感じさせる強さというのでしょうか、強さを感じさせない強さというのでしょうか、それがとても魅力的に見えるのです。

人は誰か一人に絶対的に受け入れてもらえれば世界を敵に回すことができる強さを持ち、一方誰かに絶対的に受け入れてもらえなければ些細な出来事にも折れてしまう弱さを同時に持っています。

あおい目のこねこは、誰かの無条件の温かい承認を、人生(猫生)のどこかで得たのでしょう。

「こねこが今受けている試練」と「こねこがこれまで受けたであろう愛情」のコントラストが、ユーモアたっぷりに描かれている、そこの部分が子ども達の心をつかむのではないでしょうか。私はそう読みました。子ども達もこの本を見ていろいろなことを感じます。私からこんなことを説明してしまうのは野暮なことです。

名作中の名作ですね。是非子どもに読ませたい本です。

なお、受験国語では「○○が成長する物語」が多数を占めます。成長のバリエーションはいくつかあるのですが、大体パターン化できてしまいます。これが見えるとかなり読解力がつき「筋」が見えてきます。その背景には、出題者側の大人の都合というものも実はあります。

物語を読む際には、「作中の論理(心理)」と「出題者の論理」を踏まえるというのは、受験国語に必須であるということは繰り返し述べていくことですが、とても重要なことなのですね。少し実務的な話になりましたが、児童書で古典と呼ばれるようなものには、ものすごく素晴らしい本がたくさんあります。以前紹介した「モモ」もそのひとつです。また、そのつど紹介していきたいと思います。

読書の秋らしくなってきました。本を読みましょう!

<2010.09.18>

【書評】「本当は怖ろしい漢字」

国語力を向上させる上で、漢字をマスターしていることは必須ですね。

漢字は中国の聖人が生み出したと四書五経のひとつ「易経」にあります。そこには、聖人たちの人間に対する深い洞察が組み込まれ、調べれば調べるほど深いものであることがわかります。

「本当は怖ろしい漢字」という本を読んでいました。かなり怖い本です。ほとんどホラーですね。

一番考えさせられたのは、「民」でした。「民」は目を針で刺している形(!)をかたどったものだそうです。なぜそれが国に暮らす人々の意味になるのかというと、その起源は古代奴隷制度に求められるとのことでした。古代奴隷制では、捕まえた人たちにいろいろ労働をさせるわけです。しかし、逃げられても困る。そのとき、自由を奪うひとつの方法として片目の視力を奪うことが行われていたようです。したがって、「民」は支配されるものを表していたのでした。

「そういう起源があったのか、でも今の意味はそれとは違うよね」といいたいところですが、今の「民」がはっきりと両目で物事を見ているのかといえばはなはだ疑問に思います。いつの時代も、「民」には両目ではっきりと物事を見られては困る誰かがいるのかもしれません。

漢字にはこうした物事の本質を考えさせるようなストーリーが含まれているものがたくさんあります。そしてそのストーリーは現代でも物事の本質に近づく知恵を示唆してくれます。時間さえ許せばそのようなストーリーも含めて覚えてほしいですね。

なにしろ漢字は古代の聖人・賢者達からの贈り物ですから。

<2010.09.16>

【書評】「頭のよい子は「ことば」で育つ」

「頭のよい子は「ことば」で育つ(外山滋比古著・PHP文庫)」という本を読みました。外山教授の文章は入試でも頻出です。癖のない論理的な文章で主張が繰り広げられます。そこが入試問題として好まれるのかもしれません。

要約すると次のようになります。

「頭のよい子を育てるためには、乳児期より大人(特に母親)がたくさん話しかけてこどもに『耳』を使わせることが重要である。乳児期に語られる母からの言葉が『母乳語』である。母乳が赤ちゃんの体をすくすくと成長させていくように、『母乳語』は赤ちゃんの心を育む。一方、『離乳語』は絵本や物語などの読み聞かせ・素語り・朗読に相当し、具体的な言葉からより抽象的な言葉へ移行するときに重要である。
一方、『耳』を使わせるとはいえ、テレビの教育的効果については疑問がある。むしろ精密な思考を妨げるのではないか。」

絵や映像は目に属するものですが、音楽、言葉、思考は聴覚に属するものです。
実は、絵や映像は想像力や思考を停止させたり思考を誘導したりする効果があります。

たとえば「地球が丸い」といくら論理的に説明しても信じられない時代がありました。しかし、写真なり映像なりを見せると「確かに丸い」ということで信じざるを得ません。なぜ丸いのに人が落っこちないのかだとかなぜ丸いのかなど考えるまでもなく「確かに丸いね。」ということで考える必要がなくなるのです。実際に丸いし人は落っこちないで生活しているのですから。

目に属するものはインパクトが強く、想像力や思考を停止させるだけの説得力があります。それだけ人にとって視覚情報は強いのです。

したがって、映像をうまく使えば人の思考を簡単に左右できます。たとえば湾岸戦争のオイルにまみれた水鳥を見たことありますでしょうか。本当に悪いかどうかは、さまざまな立場に立って検証しなければわからないはずです。にもかかわらずあっさりと映像により思考操作させられてしまうのです。「オイルにまみれた水鳥の映像」→「なんてかわいそうに…」→「こんなかわいそうなことをするイラクは悪いやつだ!」といった具合にです。

なお、「ドキュメント戦争広告代理店」高木徹著によると、戦争において多くの映像は大衆の思考を誘導する意図を持って流されるとし、特にボスニア紛争の際のセルビアを悪玉に仕上げる手法などを紹介しております。それには広告代理店がかかわっていたりします。映像をそのまま信じることで、あっさりと「誰かが思わせたい方向に思わされてしまう」のです。そこに自主性はありません。

したがって、子どもに映像メディアを見せる際には、そのメリットデメリットを把握した上で、注意して与える必要があります。ただただなんとなく見せるということのないようにするのが思考力を向上させるひとつのコツのようです。

<2010.09.13>


【雑考】わかりやすい説明のコツ 娘とのやり取り

我が家には2歳半になる娘がいます。今では普通に会話ができるのですが、娘に「○○ってなぁに?」とよく聞かれます。何何攻撃の始まりです。しかし、私にはその単語をどう説明すればよいのかについて、学習指導の経験上、身につけた方法論があります。それは、「人に何かを説明するときに、その人の頭にある材料を組み合わせて説明すると学習効率がよい」ということです。これは幼児でも大人でも同じことが言えます。

具体例を出しましょう。「となりのトトロ」を娘と一緒に見ていたところ、いくつか「○○ってなぁに?」と聞かれました。目に見えるものについては、「これが○○だよ」と教えることができるので簡単なのですが、目に見えない「概念」については教えるのが大変です。

特に説明の難易度が高かったのは、「引越し」と「応援」でした。

まず、「引越し」を説明しなければなりません。彼女の頭の中には、「家」「車」「行く」「みんな」という単語が材料としてインプットされていることが私にはわかっています。ですので「引越しってね、みんなで家から家に車で行くことだよ。そこでみんなで住むんだよ。」と説明しました。本人は納得したようです。「ふーん、へー」と言っていました。本当は「古い家から新しい家に移り住む」とか「家具なども全て持っていく」だとかも説明したかったのですが、わからないことをわからない単語で説明すると余計わからなくなるだろうと思ってそこは自重(?)しました。少し荒いですが大幅にずれてはいないはずです。

次に、「応援」ですが、これは一瞬戸惑いましたが「お手伝いして助けてあげることだよ。ゆいもお母さんのことを応援してあげるんだよ」と説明しました。「わかった」といっていましたので多分わかったのでしょう(笑)。「お手伝い」という言葉はいつもお母さんとのやり取りで覚えていますし、「助ける」という言葉は、以前雷が光って泣いていたときに私がなぐさめた際、「パパに助けてもらった」という風に使えていましたのでわかっているはずです。なのでそのように説明しました。

言葉とはこのように、「事物や状況に対応させて言葉を覚えること」→「言葉と言葉を組み合わせて新たな事物や状況を説明するより抽象的な言葉を作り出すこと」→「その言葉からさらに新たな言葉を・・・」というように増えていきます。このように言葉は細分化していくようです。辞書を見てみると、言葉は全て言葉の組み合わせから説明されていることがよくわかります。。

その言葉の複雑な組み合わせが「文・文章」であり「思考」であり、そのルールの運用が「論理」であると私は捉えています。

人に何かを説明するとき、その人の頭の中にどれくらいの材料があるのか、どのような材料があるのかをよく観察することが大切だと思います。ゲームばかりする子どもでも、漫画ばかり読む子どもでも、その材料をつかって新たな言葉や概念を説明することができるのです。

ちなみに「たとえること(比喩)」は、当塾でも重要な論点として取り扱っていますし、中学受験でも問題として頻出しますが、実はこれも「相手の頭の中にある材料を使った説明」なのです。詳しくは授業にて問題を使ってよりわかりやすくご説明させていただきます。

<2010.09.09>

「人生は見る夢の大きさにおおむね比例する」孫正義社長のお話を聴いて。

先日、TV番組カンブリア宮殿でソフトバンク株式会社孫正義社長が出ていました。孫社長は佐賀県出身で、久留米大学附設高等学校を17歳で中退し米国へ留学します。留学から6年後日本に戻り福岡県南区雑餉隈にオフィスを構えます。アルバイト2人の会社だったそうです。10億の会社にすると豪語した孫社長にバイトはあきれて逃げていったそうです。

孫社長の話には、なぜここまで会社を大きくできたのかの秘訣が随所にちりばめられています。印象に残った話がありました。それはスタジオに来ている若者たちへの言葉です。そこで孫社長は次のように語ります。

「人生は見る夢の大きさにおおむね比例する。目標を設定せず成り行きだけであるべき姿は到達できない。人生は目標設定以下にしかならない。だからできるだけ夢は大きく持て。そういうと現実を踏まえてと言う人がいる。しかし、現実を踏まえていたらいつまでたっても現実を抜け出せない。そうこうしているうちにあっという間に50代60代になる。夢を大きく持て。別に金額的なもの出なくてもいい。世界一おいしいパンケーキを焼きたいということでもいいから。」

このような内容の話でした。とにかく目標を高く設定することで、今行動しておく必要があることが明らかになります。それは極めて遠い道のりに見えますが、行動するごとに確実に一歩ずつ近づきます。

目標は漠然としたものでもかまわないと思います。内閣総理大臣になるでもいいと思います。そのためには何千、何万というすべきことが生じるでしょう。そのすべきことをひとつひとつこなしていくうちに、当初と景色が変わってきます。そこから新しい世界が広がりまた違った目標が出てくるかもしれません。そしたらまた新しく行動を積み重ねていくのです。

教育についても同じことがいえます。今どれくらの能力なのかは問題ではありません。もちろん時間の制限はありますが(明日東大に合格したいと今日思ってもそれは無理ですね)、その子どもが何を目指したいのかについて勇気付けてあげることが大切なのです。子どもは可能性の塊ですからね。

<2010.09.08>

【書評】「モモ」

ミヒャエル・エンデのモモを読んでみました。学生の頃読みましたがまた新たに気づくことがたくさんありました。

この物語は、「モモが灰色の男たちに盗まれた時間を取り返す物語」と要約できます。ファンタジックな内容ですが、現代社会のメタファーにもなっています。単純にモモが活躍する物語と読むこともできますし、現代金融システムの構造的欠陥を描き出していて、複雑な問題を象徴的に表現している作品と捉えることもできます。。

人は、成長するにつれて時間という概念を手に入れます。現在に生きるだけではなく、過去、未来の時間軸が頭の中に描き出されます。すると次第に、現在は何も問題がないのにもかかわらず、将来に対して「不安」「焦燥感」などを、また過去に対して「後悔」「罪悪感」などを漠然と感じてしまいます。

未来の出来事を先回りして今案ずることは、将来生ずべき危険に対して対策を打つ動機になるという点に関しては意味のあることですが、今生きている実感がなくなるまで心配するようでは本末転倒です。 

今生きている実感とは何でしょうか。様々な書物に当たりますとどうも生きている実感は「五感+体内感覚」と密接に関係があるようです。これらを意識的に肯定することから「生きている実感」は生まれるようです。

風の匂い、遠くから聞こえる飛行機の音、空の色、雲の形、様々な町の彩り、手に触れているものの感触、食べ物の味、空気を吸って吐く感覚。私たちは今身の回りのあらゆる環境を感じています。しかし、ときに過去・未来のことに目が行き過ぎて、今ある豊かな現実を見逃してしまったりします。見失わないまでも当たり前のものとして流してしまうこともあります。したがって意識的にこれらを肯定することが必要になります。

私もさきほど表に出て夏の夜の匂いをかいでみました。台風前だけあって湿り気が強く海を感じさせるにおいです。そこに少し街の匂いも混ざります。意識的に感じてみました。

作中に、一秒ごとに咲いて散る花の話が出てきます。咲いて散ったときはそれが一番美しく感じられるが、また新しい花が咲くと不思議とそれが一番美しく感じられる。充実した時間とはそのように感じられるものなのでしょう。

エンデのメッセージには、人間と社会に対するやさしさや聡明な洞察が背景にあります。こうした膨大な背景が表現ににじみ出てくる良書は何度読んでも、新たな気づきを私たちにくれるものです。

<2010.09.07>

【書評】「デフレ100年」

「デフレ100年」を読んで。

教育は将来の予測と密接な関係があります。将来、日本が、世界がどのような様相を呈してくるかということが明らかになれば、では何を身に付ければよいのかということが自動的に明らかになるからです。しかし、なかなか将来の予測というものを正確にすることはできないものです。2005年時点で現在2010年について予測できた者がどれくらいいたでしょうか。

ですが、歴史を大きな流れとしてみると、「この要素はこういう傾向がありこうなる可能性が高い。したがって、10年後はこうなるだろう」というマクロの予測は成り立ちます。川の急流にたとえるとミクロでみると、渦巻きもあるし泡も生じるし、大きな流れとは逆に流れている場所もあるかもしれない。しかし大きくみれば常に高きより低きへ流れる。その大きな川の流れの予測を試みているのが「デフレ100年(水野和夫:日経ビジネス人文庫)」という本です。

この本は非常に専門的な説明が多く読むのにずいぶん苦労しました。まだ全て理解できているわけではありませんが、以下の点で極めて内容の濃い本だと思います。

@ 現代を現代経済だけ切り取って考察するのではなく、13〜14世紀にまで(!)さかのぼって考察している。

A 様々な統計的事実を多面的に組み合わせて、断片的な事実情報から立体的に組み合わせ、慎重に考察を構築している。憶測を廃し、論理が飛躍しないように心がけているのがわかる。

事実は現実に起こったことなのでひとつしかありません。しかし、意見はそれを見る人によって違います。意見は全く正反対になることもあるのです。例えば、「犬が吠えた」というのは事実ですが、ある人が見たとき「喜んでいる」と取る人もあれば、ある人が「怒っている」と取ってしまう場合もあるのです。

したがって、このころころ変わる意見だけをベースに論理を組み立ててしまうと、とんでもない結論を導きます。このとんでもない結論をベースに行動を起こすと、見事に不適合を起こします。犬が怒っているのにもかかわらず「喜んでいる」と認識して撫でにいった者は噛まれることになります。だから極力事実をベースに将来を予測することが必要となるのです。この事実をベースにした予測でなければ信頼するに足りません。

さて、これからはどのような未来になるのでしょうか。この本ではこれまでになかったような激動を迎えるであろうという趣旨のことが書かれております。だとすると、ゆとり教育は完全に将来予測を読み違えた失敗でした。

これからは、事実と意見を厳格に峻別し見えない未来を予測すること、これもひとつの大きなスキルとなってくるでしょう。当塾でもそのような論理力を開発に取り組むことを心がけたいと思います。

<2010.09.05>


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授業内容の一部を公開いたします。新たに入塾を検討されている方、国語専門塾に通われている方は参考にしていただければ幸いです。


国語問題の設問別解法(目次)
1、指示語の解釈(初級)
2、指示語の解釈(上級)
3、接続語の補充(1)
4、文の要約(1)
5、心情把握問題を解く
6、空所補充


論理的思考力の養成
1、言い換え
2、
3、因果関係
4、並列
5、論旨の把握
6、文と段落の役割


小論文を極める(目次)

1、小論文の基本
2、小論文の思考の深め方1(深い部分での対立を意識する)
3、小論文の思考の深め方2(良質な問いを発する)
4、小論文の思考の深め方3(時間と空間を広げる)
5、テーマ型小論文の対応
6、課題文型小論文の対応
7、要約の仕方(1)課題文型小論文
8、要約の仕方(2)課題文型小論文 主張の把握
9、要約の仕方(3)課題文型小論文

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